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武蔵野航海記

武蔵野航海記

福沢諭吉

「天は人の上に人を造らず人の下に人を作らず」といえり。

これは福沢諭吉(1835~1901)の「学問のすすめ」の冒頭部分です。

この「学問のすすめ」は一編が文庫本で10ページ弱の非常に薄い本というよりパンフレットといったものです。

これが明治5年から9年にかけてバラバラに17編出ています。

各編が最低でも20万部は売れていますから、人口が今の四分の一で、また本というものが今より貴重だった当時では大変なベストセラーです。

福沢諭吉の思想はまさに明治初期の国民の思想だったのです。

彼は中津藩の下級武士の子でしたが、オランダ語や英語を学んだため1859年幕府がアメリカに派遣した咸臨丸に乗り込んでアメリカに行きました。

アメリカでワシントンの子孫が今どうしているとアメリカ人に聞いたのですが、誰もそんなことに関心を持っていないことに驚いています。

また議会で政党同士が政策を巡って喧嘩をしているのに昼食を仲良く摂っていることもどうにも理解できませんでした。

そもそも政党とは「徒党」であって日本ではご禁制です。

このように諭吉はアメリカでものすごいカルチャーショックを受けています。

そこから欧米の社会制度に関する強烈な関心が生じました。

そして翌年幕府がヨーロッパに派遣した使節団にも同行し帰国後にヨーロッパの事情を紹介する「西洋事情」を書いています。

その後は幕府に仕えましたが、幕府と朝廷の役人のだらしなさを見て啓蒙家・教育家として生きる決意をします。

そして1868年に慶応義塾を創設しました。

1868年9月に年号が慶応から明治に変っていますから慶応義塾はまさに明治維新とともに出発したのです。

彼は天性の教育者で、教育に関しての方針が明確でした。

教育とは人に物を教えることではなく、潜在的能力を開発することだというのです。

そして学問とは実用性のある「実学」でばければならないと考えていました。

彼の「実学」というのは儒教のような空理空論に対する概念です。

即席に役立つ学問だけではなく基礎研究も重視しています。

つまり真理それ自体を追究することによって得られた成果が次の時代の産業に役立つとも考えていたのです。

彼のこの考えはニュートンの物理学という一見無用の基礎研究が具体的な技術に発展し産業革命が起きたという事実から来ています。

諭吉に限らず明治人に共通しているのは「日本の独立」です。

諭吉は「日本人の義務は国体(国の独立)を保つことのみ」と断言しています。

国家とは出来上がっているものではなく、維新の動乱を通してそれが出来上がっていくのを目撃したものです。

軍艦の大砲で威嚇され不平等条約を締結したのですが、いかにして日本の独立を保持するかを模索した結果が明治維新だったのです。

従って諭吉の教育の目的も「日本の独立です」。

諭吉はまず「文明」を尊重します。

文明とは人間の体を安楽にし、心を高尚にするものです。

従って特定の思想の体系ではなくて自由な精神とその結果生じる生活の便利さのことです。

そこから文明を妨げる古くからの習慣に捉われることを否定し、自由な精神を妨げる儒教を否定したのです。

明治の初めに日本に進化論が紹介され一躍大評判となりましたが、諭吉も儒教社会から文明社会への移行を「進化」と考えています。

ヨーロッパ文明の背後にキリスト教があり、それは儒教とはまったく別の体系だという事実に気が付いていません。

儒教を信奉した封建制度の延長戦上に「進化」した文明があるという理解です。

そして日本を文明化し安楽な物質文明と教育環境を作るには、まずは日本の独立を維持しなければならないというわけです。

日本の独立を維持するにはまず個々の日本人が独立しなければなりません。そこから慶応義塾の教育方針である「独立自尊」が出てきます。

個人が独立した精神を持つにはある程度の財産を持つことが必要です。

そこから「学問は身を立てる財産」だということになり、財産つくりに寄与する「実学」でなければならないのです。

慶応義塾大学の卒業生の多くが実業家を目指したのもこういう理由です。

このような明快な教育方針と日本を啓蒙しなければならないという使命感がありましたから、周囲に優秀な人材が集まりました。

そして慶応義塾は高等教育機関として順調に発展していったのです。

慶応義塾は明治の初めに多くの教育者を輩出しており、彼らが諭吉の思想を広めたので、彼が明治の初めの日本人に与えた影響は非常に大きいのです。

また固定観念に捉われず自由な発想が大事だと考えていますから社会の価値体系が多様で流動的でなければならないと考えます。

対立と競争による社会の多様化が社会の進歩の要因だとするのです。

社会の多様化ということから、権力の集中した社会を否定します。

江戸時代は治者と被治者が別れていて権力が少数の治者に集中している社会でした。

そして人は「常に人に屈するを以って恥とせず」という状態でした。

自分より力のあるものには卑屈で、弱いものには傲慢になるいやな社会だったのです。

文明は権力が分散している自由な社会にのみ生まれるのです。また学問・道徳も政治から解放されていなければなりません。

従って政治と道徳が一体となった儒教は駄目なのです。

このようにして諭吉は、自由・独立というヨーロッパの近代的価値観にたどり着きました。

諭吉は「文明論の概略」という著書でヨーロッパの歴史を紹介しています。

西洋文明はローマの滅亡から始まるとしていて、自由独立の気風はゲルマン人が野蛮な時からあったとしています。

また宗教改革とは、カトリックとプロテスタントの双方とも教えの正邪を主張しているのではなく、ローマ法王との権力闘争で自由を主張したものだという理解です。

そしてこれがヨーロッパでの自由の主張の始まりだとしています。

諭吉もキリスト教の無知によってヨーロッパの歴史を誤解しています。

どの民族も階級の無い原始社会では自由でした。

近代ヨーロッパの自由とは神が人間を自由なものに作ったというのが根拠です。

神が与えたものだから誰も奪うことが出来ないのです。

カトリック教会では、懺悔や免罪符の購入のような儀式を受けることによって罪が許されるという教義です。

そんな馬鹿なことは聖書にも書いていないデタラメだと主張したのがプロテスタントです。

どうしたら罪が許されるかという教義の基本的なところで正邪を争ったのです。

そうです。また始まったのです。

日本人は宗教に対して無知・無関心なので外国の思想の基本的なところを理解できないのです。

江戸時代の儒教の導入の方がまだましでした。

「天」という概念から儒教の思想が来ているということを知っていたからです。

それでも結局は、日本人は儒教を理解できませんでした。

ところがヨーロッパの思想を導入する初めからその基礎にあるキリスト教の信仰を見落としています。

この無知は現代までずっと続いています。


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